東北芸術文化学会

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團 名保紀氏 イタリア・カッラーラ国立美術学校における講演

團 名保紀氏 イタリア・カッラーラ国立美術学校に於ける講演

 カッラーラ美術学校(アッカデミア・ディ・ベッレ・アルティ・ディ・カッラーラ)の招聘を受け、3月27日同校講堂でティーノ・ディ・カマイーノに関する講演会を行った。タイトルは「ティーノ・ディ・カマイーノのフィレンツェに於ける或る忘却された重要モニュメントー最近スイスでティーノ・ディ・カマイーノの大部の研究書が出版されたことにちなみ」とした。同校彫刻科フランコ・フランキ教授及び美術史担当のマルコ・チャンポリー二教授の司会・講演者紹介を受けたが両教授の言葉の中にもいかにシエナ出身の中世の彫刻家ティーノがその芸術の普遍価値並びに現代性によって20世紀初頭以来注目されてきたかが指摘され、又ティーノ芸術の重要性、影響力の大きさが今後とも広く認識されていくであろうこと、それへの期待感が表明されていた。



 私は1977年のフィレンツェ大学卒業論文『ピサ時代のティーノ・ディ・カマイーノ』(審査者:アレッサンドロ・パッロンキ、エンゾ・カルリ、ミーナ・バッチ)以降1985年までティーノ研究の著書及び論文をイタリアで発表しそれらについてはこれまで一定の反響を得て来た。しかし1985年の日本帰国後に発表したティーノに関する日本語論文については欧米でこれまで引用されることがなかった。そうした中1930年代半ばのカルリ、ヴァレンティネル以来の久方ぶりの総合的ティーノ研究書が若きイタリア人女性フランチェスカ・バルデッリにより昨年スイスで出版され、そこでようやく私の日本語によるティーノ研究も取り上げられた。例えば本学会誌1999年及び2001年の論考に関してである。又同著では私が年来携わってきたハインリッヒ七世の墓の再構築案への対案が新たに提起されたが、講演会ではそれへの批判をも交え、1983年発表の私案につき説明し、その墓に介在したフィオーレのヨアキム主義、平和希求の根本理念につき強調、今なおその再現案が有効である点を示した。


 さてこの度の最新のティーノの研究書に於ても全く考慮されないティーノによる重要モニュメントについて、私は1993年以来、それを構成していた各彫刻要素を発見、認定し発表してきた。さらに私は今又新たに同モニュメントの歴史的実在性を決定づける別一体の彫像を発見するに至った。それらのイタリアに於ける初の紹介をもってこの度の講演会の主内容とした。1321年12月10日、フィレンツェ洗礼堂内に既に設置されていた聖バルトロメオ像を囲んで十二使徒、並びに四福音書記者像が発注されたことを知らせる文書が存在する。しかし誰に発注されたか記載がないこともあってこれまで欧米のティーノ研究では考察されなかったものである。1321年といえばフィレンツェでティーノが洗礼堂及び大聖堂で活躍の年であり、モニュメントの規模の大きさ、重要な内容からして制作がティーノに託されたことが推察されるが、これまで私はティーノのフィレンツェ期の彫像の様式特性を示すやや扁平な大理石製聖パオロ(個人蔵)、並びに聖ヨハネ像(サンジミニャーノ教区美術館蔵)を発見、いずれも洗礼堂内の同モニュメントから来た半身像と認定、さらにそれらが囲んだ中心像聖バルトロメオ像の破片としてボストン美術館の頭部像を認定し、本学会年報「芸術文化」でも発表して来た。そしてこの度同モニュメントを構成していた彫刻要素として四つ目のもの、福音書記者ヨハネを表す杯を抱えた老人の扁平な半身像を発見、そのサイズがやや前出二使徒像より大きく又底部の形体も異なることから一連の福音書記者像は全体に四角形の形状を発揮するモニュメントの四隅をそれぞれ力強く占め、それら互いの間の四辺に三体ずつ使徒像が来るという再現案を提示、恐らく洗礼堂内のドナテッロ作バルダッサーレ・コッシャの墓のように二本の太い柱の間に収められた可能性が高いと述べた。ティーノが参考としたものとしてまずピサの皇帝の墓一階層の聖バルトロメオの祭壇で聖バルトロメオ像が十二使徒及び四福音書記者像に囲まれる形で登場する点があるが、新発見の福音書記者ヨハネ像の鮮やかな彩色の跡から判る絵画的傾向からしてシモーネ・マルティーニのシエナ市庁舎内「マエスタ」の枠帯画の四隅に登場する福音書記者半身像がそれらの間の四辺上の位置に来る他の半身像よりやや大きいことの影響もあると思われる。ティーノはピサ時代より色彩芸術家としての異名を誇ったが、今色彩の坩堝たるフィレンツェ洗礼堂内部に施す彫像モニュメントとしてあたかも四角いルネッサンス式額絵の先取りのごとき世界を実現していたと思われ、そのユニークさ、先取性に驚かされるのである。


 さてパワーポイントによる以上の内容の発表後質疑に移り、ティーノの彫刻の絵画性の特色がピサの帝墓でも確認できるかとの問いがマルコ・チャンポリー二氏から発せられた。それに対し同墓の祭室の石棺、寝像それに背後のニッチで塗金を含み生々しいまで彩色が施されていたことをまず挙げ、同様の傾向はピサ大聖堂内の前作、聖ラニエリの墓及び洗礼盤で既に顕著であったこと、又シエナ大聖堂のペトロー二の墓では赤大理石が用いられていること、フィレンツェ大聖堂のオルソの墓でも彩色の跡は今なお顕著に認められることなどを紹介した。日刊紙「ラ・ナツィオーネ」のカッラーラ地方版に講演会の予告記事が出たこともあり多数の市民を含む聴衆を前に永らく私が携わってきた問題につき発表出来たことは今後の研究推進にも励みとなり、貴重な機会を与えて頂いたカッラーラのアカデミア教授陣、フィレンツェ、シエナ、ピサ、ヴォルテッラ、ミラノ等からも来られた熱心な聴衆に対し謝辞を述べて会を終了した。 〔文:團 名保紀〕


 

 


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